ご高承の通り、ロータリーの様々な奉仕活動の目標は、世界の平和にあると言っても過言ではありません。その実現のためには、地球上のすべての国々が、そして夫々の国家を構成する地域社会の住民が、幸せに日常を送ることが大前提となります。世界各地のロータリークラブがそれぞれの地域社会に根ざした奉仕活動を行うと共に、支援を必要とする他の世界の国々に対し奉仕活動を展開する意味がここにあります。
そしてその結果、世界の隅々に至る迄、人々の顔が活々と輝くようなまちづくりがなされることこそ世界平和の実現につながるのだと思います。
この様にロータリーの活動は、地域のまちづくりに始まり世界の隅々迄広がります。その最初の入口のまちづくりについて、私はかねがね次の様に定義づけてきました。即ち「まちづくりとは、子孫にどのような環境を残すかについて考え行動することである。言葉を変えれば、まちづくりとは、子孫が常にときめきを覚えることのできる環境を残すことである」と。そして、その活動の究極の目的は、地域住民をして「生涯をここで終えても良いと思えるようなまち」をつくることにあります。
私はこれを「死に甲斐のあるまちづくり」と表現しています。人々にとって「生き甲斐」「働きがい」は、夫々いくつあってもいいでしょう。
ところが「死に甲斐」はすべての総決算。しかも、地域と密接な関わりを持ち、これを私は属地性と表現していますが、この点で他の二つと決定的に異なります。それに加えて、人生を終える場所はたったの一ヶ所、死ぬ間際になって、もしこんなまちで死を迎えるとはと、後悔するようなことにでもなればその人の生涯は、例え100まで生かせてもらってもその瞬間無意味になります。だからこそ、「死に甲斐のあるまち」すなわち、このまちで死ぬことに誇りと愛着を抱けるまちをつくることこそ究極のまちづくりだとするのです。次の世代を担う人達がいつも胸にときめきを覚え、そこに住むすべての人達が生涯をここで終えても良いと思うまち、こんなまちを 国を 世界をつくることが私達ロータリアンの使命だと考えたのです。
今、私達が行っているあらゆる奉仕活動は単に自分達の安全や日常生活の向上のためにあるのではなく、これから成人する又生を受ける次の世代のためにあるのです。
人として基礎的な教育さえも受けられず飢餓に、病苦に、はたまた戦争におびえる世界の子供たち、不安定な経済状況、不完全な犯罪防止や災害対策、住民同志の粘着度が薄まったコミュニティー、社会貢献はおろか倫理観にさえ欠ける企業活動、地球規模の環境汚染と温暖化現象、こんな環境の中に在ってどうして「次の世代の人達の心がときめく」のでしょうか。
ロータリアン一人ひとりが力を合わせ「次の世代へときめきを」贈ろうではありませんか。
私の好きな教えに人生の五計という、中国は宗の時代の朱新仲の残した教訓があります。
まず第一は、生計。これは人間の尊厳はどこにあるか。どう生きるのかについて考えることであります。因に一般に言われる暮らしを立てて行くための方法や手段を意味するものではありません。
第二に、身計。世に出て、何によって身を立てていくか。つまり社会人としてのあり方です。
第三は、家計です。どんな家庭を築くかと言うことで、家計簿のそれではありません。
第四は、老計。いかに年を重ね、どのような老人になりたいか。後輩から尊敬を集めるような老人になるための計画です。
そして、最後に自らの人生の総決算である死をどのように迎えるかという、第五の死計です。
ただ、その時その時行き当たりばったりに考えるのではなく、人として物心がついたときから、時に応じてこれから先々の身計、家計、老計、死計に至るまでぼんやりとでもいいから常に考えていなければならないということです。自分はこんな人間でありたい、そしてこんな風に年をとりたい、人生最後の締めくくりはこのように終えたいと。
ところで一概には申せませんが、この人生の五計の内、第四の老計までは我が身の振り方に関するウエイトが高く思われるのですが、最後の死計だけは少し趣が違うように思えてなりません。そのわけは死計には精神伝承のステージが含まれていると思ったからです。
生計から死計へ、死計から次の世代の生計へと受け継がれ、やがてその累積が、まちの文化・歴史そして人的風土をつくり上げていく。今ある私たちは、その循環即ち輪廻の中に存在しているのだということでしょう。
だからこそ、次の世代の人達が未来に向ってときめきを覚え、生涯をここで終えても良いと思うまち、そんなまちを 国を 世界を造ることこそ「ロータリアンの死に甲斐」にすべきだとしたのです。
そして、これこそ世界平和のための課題解決の第一歩であると考え、地区のテーマとして掲げたのであります。
精神伝承と言えば、私が幼い頃から大切にしていることばがあります。それは今私たちをとりまく全ての資産の継承についての格言です。
私の住むまちは近江商人のふるさとで、子供の頃から「我は先祖の手代(使用人)なり」という言葉を耳にタコが出来る程聞かされて育ちました。幼い頃はおまじないのように思っていましたが、やがて成人するに従ってその意味するところを知りました。それは、「将来お前が先祖から受け継ぐ、すべての資産や信用は実はお前個人の所有物ではなく、本来はご先祖様のものである。従ってお前は子孫に引き継ぐ迄の間のお守り役に過ぎないのだ。だから、間違っても勘違いして自分の勝手な思いで利用したり浪費をしてはならない。 そして何時か時が来れば、傷をつけずむしろ磨きをかけ価値を高めて、子孫に渡せるようにするのだ」ということでした。
この忠告に似た格言を、昨今の地球環境問題にあてはめて考えてみましょう。よく環境問題を扱ったシンポジウムなどで、こんな発言を耳にいたします。曰ク「私たちは次の時代に少しでも良い地球環境を残すため努めなければならない」と。言っていることは、先の格言と同じ様に聞こえますが、その実内容は全く異なります。その理由は、先ず、前提として現在の地球環境を自分の所有物とし、つまり使用する権利は自らにあるとした上で、子孫にどれだけ残してやるかについて述べていることが透けて見えるからです。
つまり、現在の経済効果や生活の利便性、そして日常のアメニティを、可能な限り低下させることなく維持した上で、その余剰を如何に体裁よく次の世代に譲るには、どうすれば良いかと言っているのに過ぎないのです。
そして、これらの発言はしばしばサスティーナブル(持続可能な)という用語を本来の意味から離れ作為的に誤用することで表面が飾られ、隠されたエゴが見破れなくなるきらいがあります。その人達にとって、持続可能とは現状維持だということなのです。
常識的に一人の人間として、愛しい子孫からの預かり物を自分の損得で傷つけるような人は誰も居ない筈です。
しかし現実はそうではありません。先にもふれましたように、企業も消費者もその多くが地球は今を生きる自分達の所有物だと思い込み、少し位環境を汚染しても許されると勘違いしているのです。本当に胸の痛む話です。いえそれ以上にこんな風に、子孫に環境の汚染と破壊のツケを廻して、どうして彼等が未来に向ってときめくことが出来るのでしょうか。「為せば成る」です。今こそ本質を論じ行動に移そうではありませんか。
おわりに
いよいよ新年度を3ヵ月後に控え、地区役員の方々は勿論各クラブでは会長エレクトを始めとする幹事、役員の皆様は一年の大計の準備を整えられたところでありましょう。
李RI会長エレクトは、子供達の「夢をかたちに」し、生きるよろこびを与えるため世界のロータリアンに協力を求められました。そして、私は2650地区の皆様に、「次の世代の子供たちがときめきを覚える」ような社会を創ることを、「ロータリアンの死に甲斐」にして下さいとお願いしました。そしてそのキーワードを「まちづくり」としました。何故「まちづくり」ということばを敢えて使ったのかということについて少しふれて置きたいと思います。その理由は、今私たちロータリーが取り組んでいる事業のほとんどすべてが「まちづくり」であると考えたからでした。
「まちづくり」についての私なりの定義づけにつきましては先に述べましたが、私が初めて「まちづくり」という言葉に出逢ったのは35年前の昭和48年のことでした。
当時、私は仲間と共にヘドロで一杯になった八幡堀を、駐車場や小公園に改造する計画で始まった、国の埋め立て工事に反対し、堀の再生運動に取り組んでいました。或る日、保存修景を指導いただいていた京大の西川幸治先生から突然「君たちがやっていることはまちづくりですね」と話しかけられました。そこに居合わせた仲間と共に私はその意味が判らず、しばらく顔を見合わせているばかりでしたが、やがて口々に「あのう・・・都市開発ではないのですが・・・」「八幡掘の復元運動です・・・」「市とは反対の立場です」などとあいまいな返答したものでした。初めて耳にする「まちづくり」という言葉をてっきりデベロッパーによる開発事業や行政の区画整理事業などの都市開発と勘違いしたからでした。
先生は、笑い乍ら
「皆さんは堀の復元を、何のためになさっているのですか」と重ねて問いかけられました。
「えーっと、市民のために、八幡堀の保存は必要だと考えるからです」
先生「何故ですか」
「近江八幡の発展の歴史を語るとき、近江商人の活躍とそれを支えた流通の大動脈であった八幡堀はその原点です。その意味で先人の残した八幡堀は私たちの宝であり市民の誇りなのです」ようやく答えらしくなって来た。
先生「だから、かつての美しい姿を復元し、先人のエイトスをこれからも末永く伝えることが、自らのまちの正しい発展の方向づけになると考えたのでしょう」
「その通りです」我が意を得た思いで居合わせた仲間たちの目の色が変わった
先生「そのような運動をまちづくり運動と呼ぶのです」
「まちづくり」という新鮮な言葉が皆んなの胸にしっかりと刻み込まれた瞬間であった。
私たちが八幡堀の保存修景運動に始まる多くのプロジェクトを「まちづくり運動」と銘打ったのはこの時からでした。振り返れば、今昔の感しきりです。
昨今はどうでしょうか、民から官までどちらを向いても、「まちづくり」という言葉があふれています。特に行政にとってこれ程使い易いロゴはなく、安全・安心のまちづくりや福祉と教育のまちづくりなど○○のまちづくりとさえ云って置けば多少中味があいまいであってもとりつくろえます。そのせいだけではないでしょうが、今ではすっかり行政用語に納まっています。従ってこれが禍いしたのか、最近ではまちづくりといえば何か行政や自治会主導の事業にさえ受け止められる傾向がありますが、これは大きな錯覚です。まちづくりには官も民もありません。そこにあるのは役割分担です。官の役割は社会を円滑に運営するための手だてとなることであり、法律や科学技術と共に文明の利器の一つです。
従って、当然のことながら人間の情感を満足させる文化的側面には欠けることが多く、行政の文化化が叫ばれる要因がここにあります。この部分を埋めるのが民の役割です。今一つ忘れてはならないことは、まちづくりは誰のためにあるのかと言えば、それは住民のためであり決して行政(官)のためではないということです。だからこそ、そこに住む人々にとって、まちづくりが死に甲斐の対象になるのです。
一般にこれも行政用語に入るのでしょうが、産・官・学・民といったことばがよく使われます。これは社会を構成する夫々ジャンルの異なる立場から意見を出し合い協働して課題解決を図ろうとするもので、一応住民のコンセンサスを得易い形をなしていますが、官主導である事は否定出来ません。
ところで、ロータリーの構成メンバーを改めて振り返ってみますと、官を除いた産・学・民すべてに亘る人材の集まりであることに気付きます。ロータリーは巧まずにして理想的なまちづくり集団だったのです。しかもそれは官の「文明」に対し、人間の、そして住民の情感を満足させる「文化」を担うにふさわしい資質を持つと自負する組織なのです。
今回敢えてロータリークラブで「まちづくり」ということばを強調した理由をご理解いただけたと思います。
理想的なまちづくり集団、地域社会から世界に至る幅広い活動を可能とするロータリーこそ世界の子供達、次の世代がときめきを覚えることの出来る社会環境を創り出す最強の集団であることをここに確信するものです。そして、この次の世代につなぐ奉仕活動こそロータリアンの究極の目標であり、次の世代につなぐ死に甲斐であると考えるのです。
まちづくりの対象が地域社会であろうが、海を越えた国際社会であろうが、その精神は変わらないのです。それらの目的が「ときめき」である限り。
それでは最後にまちづくりについて今少し私の思うところをお示しし、この項を終えます。
<「流行性ニーズ」と「本態性ニーズ」>
私たちをとりまく社会の背景には「流行性ニーズ」と「本態性ニーズ」がないまぜになって存在しています。それらの特徴は次のとおりです。
(1) 流行性ニーズとは
・ 時代の風潮によって変わるファショナブルなもの。
・ 可逆的でスパンが短い。
・ 表面的でアメニティーやイベント志向が強い。
・ 時の社会背景を反映し、数値的にコンセンサスと誤解され易い。
(2) 本態性ニーズとは
・ 市民やまち全体が本来持っている性質や姿。(アイデンティテイ)
・ 自然環境、歴史や伝統、人的風土に根付いたもの。
・ 不可逆的でスパンが長いもの。
・ まちづくりの方向付けの根幹となるもの。
さて、まちづくりには、ロングランなストーリー性が求められると共にそのテーマは本態性ニーズに立脚していなければなりません。それは、まちづくりのストーリーの対象がそこに生涯住み続ける住民だからなのです。従って、そのストーリーはどんな時代がやって来ようとも、またどんな社会変革が押し寄せて来ようとも、ブレることなく進められなければならないのです。
しかし、しばしば流行性ニーズに迷わされ、これを変化と捉えこれに適応しようとして、そのストーリーにブレが生じることがあります。若しその様なことになれば、まちづくりはその時点で頓挫し終焉を迎えます。変化への適応とは流行性ニーズを追う事ではありません。本態性ニーズをふまえた上で流行性ニーズにどう対処するかを考えることなのです。その為に私達は常に学習をしなければならないのです。
まちづくりは不易流行、いずれのニーズも大切です。しかし、取り違えてはいけないのです。
<まちづくりとは、身銭を切ることです。>
(1) お金のある人は、お金を出して下さい。
(2) 体力のある人は、汗を流してください。
(3) 知恵のある人は、知恵をお貸し下さい。
(4) そしてそのどれもが難しい人は、皆と一緒に「どうか、このまちがよくなりますように」と祈って 下さい。
(ロータリアンの皆様には、このどれもが可能です。)
<「死に甲斐のある終の栖のまちづくり」とは>
(1) 人にとって生き甲斐や働き甲斐はいくつあっても良い。
(2) 死に甲斐はそれらすべての総括である。
(3) 死に甲斐は地域社会と密接なかかわりをもつ。人生を終える場所は唯一ヶ所しか許されない からである。(属地性)
(4) 時には仮の住まいのつもりが、「終(つい)の栖(すみか)」になることだってある。
(5) 死の間際に「こんなまちで…」と後悔したとすれば、それまでの人生は一瞬にして無意味と なる。
(6) 他所からやって来た人であっても、この地で人生を終えることを幸せだと思えるようなまち、 それが「死に甲斐のある終の栖」である。
(7) 「死に甲斐のあるまち」をつくるということは、一人ひとりが今住んでいる処を、より良くしてい こうという郷土愛そのものである。
今一度繰り返します「次の世代にときめきを、ロータリアンは死に甲斐を」・・・・。
地区ロータリアンの皆様の更なるご活躍をお祈りいたしますと共に、次年度のロータリー活動へのご協力をお願いしご挨拶といたします。
ありがとうございました。
それでは次年度の目標設定について申し述べたいと思います。
地区の目標設定について
李RI会長エレクトは「MakeDreamsReal〜夢をかたちに〜」のテーマを掲げられ、過去何年間にも及んで継続されてきた奉仕の強調事項である 水、保健と飢餓救済、識字率向上 に対する取り組みを引き継ぐことを宣言されました。
そしてこれらの分野に光を当て、世界の子供たちのすさまじい死亡率を低下させ、将来への希望とチャンスを子供たちに与えることによって、彼らの「夢をかたちに」していくのだと力強く説明されました。
また、このことは発展途上国の課題にとどまらず先進国に於いても本質論としては変わらぬものとしてとらえ、足元の地域社会へ目を向けることは私たちの使命であると話されました。私共のテーマ「次の世代にときめきを」を実現するためのまちづくりと相通ずるものを感じ心強く思った次第です。RIの期待に応えるべく努力をしたいと思います。
(1)クラブ奉仕部門
会員増強はロータリーの存亡をかけた最重点課題です。李RI会長エレクトは純増1名を基本的な目標とされた上で各クラブ10%の増強は推奨目標として設定されました。当地区としては各クラブ純増1名を昨年に引き続き目標といたします。魅力あるクラブ運営は会員増強と共に退会防止にもつながります。共に力を合わせ目標を達成することが、ロータリーの発展につながることを胸に力強く前進しましょう。
(2)職業奉仕部門
職業奉仕は、他の多くの奉仕団体と我がロータリーを際立って識別する最大のモメントとされています。正に金看板であり、ロータリアンのパスポートの裏書でもあります。さてご高承の通り1905年ポールハリスによって創始された当初のロータリークラブは、親睦・助け合いから始まりました。その後ハーバード・テーラーの実証したロータリーの行動規範である四つのテストが定められました。そしてロータリーの行動哲学であり、公式標語となっているフランクコリンズの「超我の奉仕」そして第二標語であるアーサー・シェルドンによる「最もよく奉仕する者、最も多く報いられる」とする行動哲学が提唱され、今日に至っています。
この2つの標語について、私は常々「陰徳善事」と「陰徳あれば陽報あり」の2つの格言に読み換え、洋の東西を問わず人の志すところは一つであることに深く感銘いたして居ります。
職業奉仕はロータリアンの基本的条件であり、ここで改めて何をすべきかを申し上げる必要はないでしょう。しかし世間に目を向けますと、余りにも職業道徳(企業倫理)の欠落した事件の多いことに驚きます。
このことは同時に社会は今こそ真のロータリアンの出番を待っていると言っても過言ではないのです。ロータリアンの真価を発揮されんことを祈ります。
(3)社会奉仕部門
ロータリーの根幹である職業奉仕の精神に基づいて、広く外に向って奉仕活動を展開しようとするのが、この社会奉仕部門であります。
当地区では、各クラブそれぞれがその所属する地域社会の自然環境や文化そして歴史的背景や人的風土を反映し、多岐に亘る活動を実践して居られることを承知しています。今後共私たちの子孫にときめきを覚えるような環境を残すことを念頭に、死に甲斐のある終の栖の実現を目指し奉仕活動にお励み下さい。そして今一つDDFの活用などを通して世界に私達の輪を広げようではありませんか。
(4)国際奉仕部門
a.ロータリー財団について
ロータリーの世界平和に資する奉仕活動の最大の手立てがロータリー財団への協力であることはご高承の通りです。昨年に引き続き全てのロータリアンが年間160ドルの寄付を行うことを目標と致します。またクラブに所属される会員全員が160ドル以上寄付された場合にはガバナー特別賞を差し上げることも同じです。
b.米山奨学事業について
この奨学会は日本独自のものであり、世界に冠たる奨学会であります。日本で学ぶ外国人奨学生が我が国に対する理解を深め、やがて帰国されることは世界に於ける日本の位置づけを確立すると共に日本の文化を世界に広め、日本に対する世界の理解を深める上で最も大切な事業であります。このため、当地区は例年通り一人当たり24,000円を次年度目標と致します。
(5)青少年奉仕関係
次年度地区テーマである「次の世代にときめきを」をストレートに反映していただける奉仕活動がこの青少年部門であります。敢えて多くを語りません。思い切り活動の翼を広げられ皆様の死に甲斐をかけて次の世代の為にときめきを残してあげてください。ご期待申し上げます。
(6)R.I.の強調事項について
a. 水保全について
安全な水がないことが直接間接の理由となって、毎日6,000人にも及ぶ5歳未満の子供の命が失われていることを考えるだけで、この課題の重要性がうかがわれます。水の汚染を防ぎ、安全な水の利用ができるよう各プロジェクトを支援することに注力して下さい。
b. 保健と飢餓救済について
命を失う子供たちの殆どの原因が予防可能な病気であり、また一方では栄養失調によるものです。水保全と同様やりがいのあるプロジェクトです。理解を深め大いなる活動を期待します。
c. 識字率向上について
子供の健康に影響する問題の多くが、親達の知識と教育の欠如によるものとされています。このことは、先端技術の恩恵を受ける多くの人々の影で、日常生活の維持の為の最低限の知識である識字教育さえままならぬ人々の存在があることを示しています。教育はこの世に生を受け未来へ羽ばたく子供たちへのささやかではありますが、欠く事の出来ない重要な贈り物です。先進国では、このことは義務教育として制度化され、人々はこの幸せに対して全く無意識に過ごしています。幸いこの分野はロータリーが本領を発揮できる得意分野でもあります。世界的な協力の上に立ち積極的な取り組みこそ求められます。皆様のご協力を切望します。
d. ロータリー家族について
家族と仲間 私たちロータリアンと心を通わせることの出来る人々は全て私達の奉仕活動のよき理解者であり支援者です。
もちろん財団学友・米山学友・G.S.E.団員・RYLA受講生・ローターアクト・インターアクト・・・心強い仲間は大勢います。
e.広報について(公共イメージの向上)
R.I.によれば我が国ではロータリーに対する国民の認知度が特に低いとされています。これの解決は地域への奉仕活動、ひらたく言えば地道なまちづくり活動を通して、住民の中に溶け込み存在感を向上させることから始めねばなりません。これこそ正しいパブリケーションのあり方でしょう。私はこれ迄のまちづくりの体験を通して、その目的が真に社会に寄与する活動であれば、マスコミは向こうからやって来ることを知っています。また反面残念なことに紙面やブラウン管を飾るニュースの多くが、流行を捉えた一過性のトピックス的な事業やワンパターンのイベント指向の事業であることも知っています。ですから、若しロータリーの活動がマスコミに採り上げられなかったり市民の関心を呼ばなかったりしたとしても、ロータリーの広報不足だとすることはありません。むしろ、いわゆる受けを狙ったり市民へのアピール効果を期待する余り、事業が上すべりし本質を見失うことこそ避けねばなりません。この意味で広報担当は外に向っての情報伝達と共に組織内に在り乍らも、各事業に対する第三者的評価を行う内なる役割も担っているのではないかと考えます。今後ロータリーの公共イメージの向上のために敢えて言及した次第です。
継続は力です。肩に力をいれず次の世代がときめきを覚えてくれるような、環境を残すことを念頭にまず足下から固めて参りましょう。やがて花の咲く日を実の成る日を期待して。
e. 会長賞について
会員純増1名達成の他、各分野に亘り設定されています。詳しくは資料を参照してください。
尚、提出期限は2009年3月31日と致します。
以上よろしくご協力いただきますようお願い申し上げますと共に会員諸兄並びに各クラブの益々の御発展をお祈りし、ご報告と致します。
ありがとうございました。
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